2019年6月21日 星期五

心口的珠寶(日本語併記)

編按:2019年4月7日時,Mahayogi Mission在日本京都舉行了「神性示現祭典・Sanatana Dharma Avatara Mela」,目的是為了感謝曾經誕生於這個世界上的聖者們,慶祝他們的存在,向他們獻上敬意,藉由知曉他們的故事與生活方式,更加激發每個人的熱情,立志更靠近他們所了悟到的那永恆不滅的真理。在台灣的我們雖然無法親身參與日本的慶典,同一天仍相聚在一起,分享了許多喜悅與感動(當天紀錄之連結)。以下的文章是當天活動中,其中一位參與者所獻上祝辭,來讀一讀吧!


撰文:Marula

佛經裡有這麼一個故事。

有位窮人到親友家作客,這位親友非常富有,且非常慷慨,不但準備了豐盛的菜餚款待窮人,還在窮人酒醉熟睡時,將一顆無價珍寶縫在他袍子的衣襟裡。但窮人毫無知覺,酒醒之後繼續到處流浪,為了滿足生活溫飽,辛苦地工作,過著不堪的生活。有一天,窮人在路上碰巧遇見了這個富有的朋友,窮人還穿著同一間袍子,只是又髒又破了,富有的人見到他竟然還把生活過得這麼狼狽這麼糟糕,非常地不忍心,生氣又憐憫地責備他:在某年某月某日,我已經把無價珍寶縫在你的衣襟裡了!你可以拿來換所有東西,在生活上不會有任何匱乏的!為什麼你還為了謀生汲汲營營,把自己陷在世俗生活裡呢!?

有趣的是,這個故事,並不是佛陀對弟子說的。而是反過來,是弟子對著佛陀懺悔、並痛下決心時,說給佛陀聽的。弟子反省懺悔,自己就像那個窮人一樣愚蠢,得到一點世俗安樂、一點淺薄的智慧就感到滿足,而從未想到佛陀給予他們的,其實是無價的、珍貴的禮物啊!

再過一個多禮拜,Shri Mahayogi就要再次來到台灣了。其實,在讀過這個故事以後,每次聽到Yogi桑要來的消息,我都會趕緊心虛地摸摸胸口,確認那個「珠寶」還在。

有一次,在真理問答的工作人員會議上,Prasadini問大家,你覺得為什麼Yogi桑要一次一次來台灣?我想,Yogi桑就像故事裡那位富有而慈悲的長者一樣,像是一次一次地來提醒我們:嘿,2017年5月11日,我已經縫了一顆無價珠寶給你了哦,你發現了嗎?它還在嗎?你拿出來好好地使用、好好地在日常生活中練習與實踐了嗎? 

很慚愧地,必須說,很多時候,我真的忘記了。忘記了Yogi桑已經給予我無價的寶藏,而受到那些蠅頭小利、世俗快樂的誘惑。像是,明明知道肩頸痠痛多做幾次貓式第三個動作就能改善了,卻還花錢去做Spa按摩!然後把自己搞得更窮!簡直就像是放著一張頭獎彩券不去兌獎,還在狼狽地、辛苦地、為生活奔波,為追求世俗安樂而焦頭爛額、沾滿職場的渾水。在體位法或冥想,嚐到一點點甜頭就滿足,就像是迷迷糊糊酒醒的人,馬上又回到庸庸碌碌的日常。

記得我有次在真理問答上問Yogi桑,當在體位法或冥想中感到平靜喜悅,這是取悅了ego嗎?還是越來越靠近真理?該怎麼判斷?Yogi桑回答:如果是越來越靠近真理的話,這份喜悅是不會間斷、不會消失的。

如此堅定的回答,讓我非常愧疚。因為儘管有時燃起了百分之兩百的熱情,有時又馬上被怠惰擊倒,還狡猾地安慰自己,我身體健康心情平靜這樣不就好了嗎?

不行。不能這樣就好了。這樣是不會好的。Yogi桑示現我們的,是抵達真實之前絕不善罷干休!

在這個吉祥的日子裡,在這個名為至上幸福、Ananda的空間裡,我想再一次地,摸著我的心口,告訴Shri Mahayogi,告訴每一位gurubai,它,還在。雖然,我偶爾會犯蠢,會懶惰。但是我確信它一直都在。

非常幸運地,去年開始,我能夠在台中服務一小群對真正的瑜伽、對Yogi桑的教導有興趣的人。以前我傲慢地以為,修行精進是自己的事。但這幾個月的團練,我實際體會到Yogi桑教導的「簡單而平靜的行動」。原來,在幫助他人持續、穩定的同時,其實是在幫助自己持續、穩定。儘管人數時多時少,但是想分享與服務的心意不受影響,積極地邀請,但不執著於結果,也不因對方參加與否而生起分別。我感覺,每次來團練的夥伴們,也都能感受到那份穩定,而專注於練習。同時,以前為自己貼上的「我是數字白痴」、「我這輩子不可能當會計」這些標籤,也在實際行動中卸除了。真的非常感謝Yogi桑的教導,以及台北Sangha的支持。

期許自己,緊緊抓住心中那顆與Yogi桑相遇的第一眼,他就幫我縫上的,永遠閃閃發亮、永遠取之不盡的珍寶,切切實實地把它用在生活中的每一瞬間!努力地跨出舒適圈,不再用短暫快樂來安慰自己,不再為取悅ego而行動。

讓現在,此時此刻的、每一瞬間一瞬間的這份喜悅,永不間斷、永不消失。




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胸にある宝石
マールラー


仏教経典の中に、次のような物語があります。

ある貧乏人が親友の家に招待されました。その親友は裕福で気前良い人でした。ごちそうを用意しただけではなく、貴重な宝石を一つ彼の着物の襟に縫い込みました。しかし、その貧乏人はそのことについて気付いていなかったので、酔いから醒めると、またあちこちを放浪して、生計を立てるために大変な仕事して、みっともない生活をしていました。ある日、その貧乏人は、路上で富裕な友達にばったりと出会いました。友達は、ぼろぼろになった同じ着物を着ている貧乏人の姿を見て耐えられなくて、哀れみを込めて貧乏人を責めました:あの日宝石をあなたの襟に縫い込んだんだ!それを売れば欲しいものすべてを買うことができて、貧しい生活を送るわけはないはずなのに、どうしてまだ生計のために世俗にまみれてしまっているのか!
面白いのは、この物語はブッダが弟子に語られたものではなく、逆に弟子が懺悔して決意を改める時にブッダに語った話だということです。弟子は自分の愚かさを悔悟したのです。ブッダからいただいたのはかけがえのない貴重な贈り物だったにもかかわらず、自分はその貧乏人のように俗の快楽や浅い知恵で満足してしまったと、弟子は反省しました。

もうすぐシュリー・マハーヨーギーが再び台湾を訪ねられます。実は、その物語を読んでから、毎回ヨギさんの訪台のお知らせを聞くと、気が咎めて、自分の胸に手を当てて、宝石がまだあることを確認していました。

ある日、サットサンガに向けたスタッフのミーティングで、どうしてヨギさんは何回も来てくださると思うのかと、プラサーディニーがみんなに問いました。それはヨギさんがその物語の中の裕福で慈悲深い長者のように、何回も私たちに気をつけさせてくださるからだと思いました。「二〇一七年五月十一日に貴重な宝石を与えましたが、気づきましたか?その宝石はまだありますか?ちゃんと使っていますか?ちゃんと日常生活の中で実践していますか?」と声をかけてくださっているようです。

情けないのは、正直に言うと、そのことをよく忘れました。ヨギさんからかけがえのない貴重な宝石をいただいたことを忘れて、世俗の快楽や小さな利益に誘惑されてしまいました。例えば、猫の三番目のポーズを数回やれば、肩こりが治ると知っているのに、マッサージにお金を使うこと。それでお金がなくなってしまう!まるで宝くじ一等賞を当てても賞金をもらわず世俗にまみれてかろうじて生活するようだ。そして、アーサナや瞑想で少しだけの心地良さを感じたらそれで満足してしまって、また凡庸な日常に舞い戻ってしまいました。

一度、サットサンガでヨギさんにお聞きしました。アーサナや瞑想の中で安らぎと喜びを感じたら、それはエゴが喜んでいるるだけなのか?それともそれは真理に近づいている証拠なのでしょうか。するとヨギさんは、真理に近づいたらその喜びは絶えずあって消えないとおっしゃいました。

その揺るぎない答えを聞いて、私は恥ずかしく思いました。時には情熱が二百パーセント燃え上がったとしても、時々また怠けてしまって、そして健康になって気持ちも安らぐからそれでいいじゃないと、狡く言い訳をしました。

でもそれだけではだめだ。それだけであれば良くならない。ヨギさんが私たちに示されたのは、真実に至るまで絶対諦めないことだから!

この吉祥な日に、このアーナンダ、至福と名付けられた空間の中で、私はもう一度自分の胸に手を当てて、ヨギさんに、グルバイたちに宣言したいです。その宝石はまだあります。たまにボケて、怠けてしまうけど、その宝石はいつも心の中にあります。その確信があります。

とても幸運なことに、去年から台中で、本当のヨーガやヨギさんの教えに興味を持つ一つの小さなグループに奉仕する機会を得ました。以前は、修行と精進は自分のことだけだと高慢に思っていました。でも何ヶ月か経って、ヨギさんが教えられた「淡々と行為する」ということを実際に体験してきました。他の人が穏やかにヨーガを続けられるように手助けすると同時に、実は自分も穏やかに続けられるように助けてもらっています。毎週アーサナの集まりに来る人は多い時もあれば少ない時もあるけれど、分かち合いたい気持ちや奉仕したいという気持ちは影響されません。積極的に人を誘うけれど、結果にはとらわれません。相手が参加するかどうかに差別心を起こさないようにしています。自分が安定したら、集まりに来る仲間たちもその安定を感じとって、アーサナに集中できるように感じました。また、以前自分に貼った「数字オンチ」や「今生会計のことが分かる可能性はない」などのレッテルは、実際の行動を通して取り除きました。ヨギさんの教えに、台北のサンガの支えに本当に感謝いたします。

ヨギさんに出会ってからいただいた宝石をしっかりつかんで、着実に生活に使えるようにします!心地よいところを離れよう。短い快楽に満足しない。もうエゴを喜ばせる行為はしない。

今の一瞬一瞬のこの喜びが、永遠に続くようにしていきます。


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